ワインを飲む楽しみとは?
1.健康のため? 2.ファッション? 3.見聞を広める? 4.コミュニケーションツール?
事情は人それぞれであり、どれも正解です。そして皆、徐々にそれぞれ変化が生じてくるものです。
・ 年齢と共に変化(経験) ・ 季節による変化 ・ 趣味趣向(精神状態) ・ 健康状態
そんな中で、自ずと好みのワイン(贔屓の産地)を自覚してくるのではないでしょうか。
もはやその様なレベルに達してくると、ワインを飲む時は常に心のどこかでそのワインを追い求め、無意識に欲しているようになってきます。そして偶然にもそのワイン(似ているワイン)に出会ったりすると、得もいわれぬ快感に包まれ、ある種のエクスタシーにも似た感覚を覚えるのです。
これを私足立は、「ワインのカタルシス」と呼んでいます。
そもそもカタルシス(katharsis)とは、古代ギリシアでは浄化・排泄を意味します。
これは医学的には瀉血(しゃけつ)の意味。またアリストテレスの哲学の中では、心の中にある「しこり」を外的な要因により自発的な感情の発散によるそれの浄化と理解され、俗的には罪からの魂の浄(きよ)めとされてきました。
わかりやすいかどうかはわかりませんが、現代的な解釈は辞書によると、俗に音楽や文学、演劇などの連続性のある芸術作品において、あるポイントを境にそれまで準備され蓄積されてきた伏線や地道な表現が一気に快い感覚に昇華しだす状態や、またその快い感覚のことを正式用法の「抑圧からの解放」になぞらえてカタルシスと表現するとのことです。
大分難しく解釈されているようですが、一般的な「カタルシス」の解釈とは「思い出の定番のポイント」だといえます。
「心の中にあるわだかまりが何かのきっかけで一気に解消すること」が普遍的な解釈であり、私なりの解釈で恐縮ですが、映画「男はつらいよ」のなかに出てくる寅さんが、序盤のいざこざの後に実家である葛飾柴又の「とらや」に帰ってくる。そこでおいちゃん・おばちゃん・さくら・ひろしと再開をしてまた新たなる物語に昇華してゆく…といったいわゆる「お約束」的な「思い出の定番のポイント」。これだと私は解釈をしています。
ワインのカタルシス
それぞれ人によりポイントが違いますが、自身が過去において飲んだワインを含め、人生のそれらに関連する経験を弁証法のように積み上げていった結果、自身が得た好みの感覚(色・香り・味わい)を元にしたワインへの感情の発散(浄化)が「ワインのカタルシス」といえます。簡単に説明すれば、マイフェイバリット(お気に入り)・ワインへの確認、定番のあの香り・あの味。そう、まさに「思い出の定番のポイント」=「ワインのカタルシス」といったところでしょうか…。
例えば、品種(セパージュ)やスタイルの個性(単一品種のワインやブレンドワイン)により得られるカタルシスがあると思います。
ブルゴーニュ(ピノ・ノワール100%)やピエモンテ(ネッビオーロ100%)などの単一品種、ボルドーのようなブレンドワイン(カベルネ、メルローなど)。または、いわゆるアメリカナイズされた現代的なワイン等。それぞれが分かりやすいワインのカタルシスを持っています。
過去の自分が飲んだお気に入りの香り・味。それらを確認できた時…。
ワインのカタルシスを感じたといえるのではないでしょうか。
ネッビオーロのカタルシス
この世にある数千のブドウ品種を比較テイスティングしたとして、もっとも低く評価されるのは間違いなくネッビオーロだと思います。
ちなみに、ネッビオーロとはイタリアのピエモンテ州原産の土着品種(アウトクトノ)であり、バローロやバルバレスコの主要品種であります。
ではなぜ評価が低いのか ?
答えは簡単、「飲みにくい」からなのであります。
・色にばらつきがあり、薄かったり変に濃かったり…。
・香りが重くアロマティックでありフルーティーではない。
・酸味が強く、とにかく渋い。薄く粗い感じがする…。
誰もが敬遠してしまうかもしれません。おそらく。いや、間違いなく…。
しかし、逆にいえばネッビオーロの本質は至極シンプルで、強烈な酸味と歯茎にグリグリくる渋みを伴うタンニンを愛すること(克服すること)が出来れば、ワインのカタルシスを得ることが出来るといえるのであります。
新約聖書「マタイによる福音書」第5章、「ルカによる福音書」第6章にある言葉に「汝の敵を愛せよ」という言葉があります。
これは「悪意を抱いて迫害する者に対して、慈愛をもって接せよ」という意味であり、この言葉を是とするか否かは別として、キリスト教的なこの思想をネッビオーロに転化すると3つのポイントが見えてきます。
1.悲しい現実(品種の)
各々のワイン・リテラシーを超越し、現実を受け入れるのです。ワインには「ルールはあるが正邪の法則ない」と受け入れ、厳しくも悲しい酸味と渋みを愛さなければならないのです。本来ネッビオーロは小粒で皮が厚く、これによりできるワインはタンニンが強く酸味がしっかりとしているものなのです。そしてそれは長期熟成に向くのが前提であるのですから…。
2.しかし、努力せよ
苦行を覚悟してネッビオーロを飲んだところで、己に克つ事は難しい。各いう私もそうであります。しかしながら、異なる価値観(ネッビオーロの古酒や他のワインと比べて飲んでみる等)に触れてみる事で、一筋の光明が見えてくる事もあります…。
例えば、その酸味や渋みをワインの骨格と考えると…? アルコールとのバランスは?奥行きや密度は? 細やかであるか、あるいは粗いのか? 等…。
3.どうしても神の愛によらなければ
ネッビオーロは極めて気難しいブドウ品種で、どんなに誠実に誓約をしたところで、自分自身の努力によってその要求に充分応えることは難しい時もあります。だからといって、傍観していて良いというのではないのです。キリスト教では「ますます激しく努力する」ことが「ある意味で自分を気付かせ、神に帰る道だ」と考えるそうであります。挫折しつつ、その人間を受けとってくれる神の愛があるというものだそうです。
敵を受け入れ、愛し、努力することで見えてくるネッビオーロ。
その厳しさの中にきっとカタルシスが見えてくるはずです。さすれば、ワインを愛せる。そして各々のライフワークとは何なのかが悟れてくるのではないのでしょうか…。